日本の学歴・資格が海外で通用しない構造的理由― 能力の問題ではなく、「評価装置」の問題である ―
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はじめに
― 能力の問題ではなく、「評価装置」の問題である ―
日本の学歴や資格が海外で通用しにくいのは、
日本人の能力が低いからでも、
日本の教育水準が劣っているからでもありません。
理由はただ一つです。
評価の仕組みそのものが、
日本と海外では、まったく別の設計思想で作られているからです。
日本では、
学歴
資格
所属
肩書
が、その人の位置や将来性を
一瞬で判断するための「予測装置」として機能しています。
しかし海外では、
その前提となる「共通の序列」や「制度文脈」が存在しません。
そのため、
東大
国家資格
一部上場企業
官庁出身
といった日本では強力なシグナルが、
海外では単なる「ローカル情報」に変わります。
これは「価値がない」という意味ではありません。
“読めない”という意味です。
海外で通用しないとは、
無視されることでも、否定されることでもなく、
評価装置の外に置かれるという状態です。
だから必要なのは、
追加の肩書
さらなる資格
学歴の上書き
ではありません。
必要なのは、
自分を「どの列にいたか」ではなく、
「何ができる人か」として語り直す能力
すなわち、
評価軸の“翻訳”です。
この構造を理解しないまま海外に出ると、
人はこう感じます。
「なぜ評価されないのか」
「なぜ実力を見てもらえないのか」
しかし問題は、
あなたの中身ではありません。
あなたが、
“読めない形式”で提示されているだけなのです。
本記事では、
この「評価装置の違い」を構造として解体し、
なぜ日本の学歴・資格が
そのままでは海外で機能しないのかを
順に明らかにしていきます。
1.「通用しない」とはどういう状態か
「日本の学歴や資格は海外では通用しない」と聞くと、
多くの人は、次のように受け取ります。
無価値になる
見下される
否定される
しかし、実際に起きているのは、そのどれでもありません。
海外で起きているのは、もっと静かで、構造的な現象です。
“評価の文脈に乗らない”
ただ、それだけです。
たとえば、日本では強力なシグナルである次の言葉も、
東京大学
国家資格
官庁出身
一部上場企業
海外では、こう変換されます。
“A top university in Japan”
“A national license in Japan”
“Worked for the Japanese government”
“A large company in Japan”
どれも否定されてはいません。
しかし同時に、優位性も付与されていない。
日本では、
「東大出身です」
と言えば、その瞬間に
「上位の列」に属していることが伝わります。
ところが海外で、
“I graduated from the University of Tokyo.”
と言うと、返ってくるのはしばしば、こうした反応です。
“Okay. So what can you actually do in English?”
ここで起きているのは、価値の消失ではありません。
序列情報が、
“ローカル属性”に変換されただけです。
日本の学歴や資格は、
日本という制度・文化・市場を前提にして
「意味」を持つよう設計されています。
その前提が共有されない場に出た瞬間、
それらはこう扱われます。
無視されるわけではない
否定されるわけでもない
ただ、「判断材料として使えない」
これが「通用しない」という状態の正体です。
海外で評価されない人の多くは、こう感じます。
「自分の実力が否定された」
「軽く見られている」
しかし実際には、
あなたが“読めない形式”で提示されているだけなのです。
問題は中身ではありません。
形式と評価装置が噛み合っていないことにあります。
この構造を理解しないまま海外に出ると、
人は「もっと学歴を足せばいい」「資格を増やせばいい」
という方向に走ります。
しかしそれは、
別の言語圏に、母語のまま話しかけ続ける
のと同じことです。
必要なのは、声を大きくすることではなく、
言語そのものを切り替えることなのです。
2.日本の学歴・資格が「強く機能する」前提構造
日本の学歴や資格は、決して弱いものではありません。
むしろ、日本という環境の中では、極めて強力に機能する装置です。
その理由は、日本の社会が、次の四つの前提を共有しているからです。
同一言語
同一文化
同一制度
同一市場
この四つが揃っている社会では、
東大
早慶
MARCH
地方国立
といった区分が、ほぼ自動的に共有されます。
それぞれに、
どの程度の学力か
どのくらいの努力が必要か
どの層に位置するか
という“暗黙の序列”があり、
多くの日本人は、それを説明されなくても理解しています。
その結果、学歴は、
「この人が、日本社会の中で
どの列に属しているか」を
一瞬で伝える予測装置
として機能します。
日本で、
「東大出身です」
「早慶です」
「MARCHです」
「地方国立です」
と言えば、相手は細かい説明を聞かなくても、
学力水準
忍耐力
地頭
将来性
を、まとめて推測できます。
これは、日本社会においては非常に合理的です。
採用コストが下がる
ミスマッチが減る
長期雇用と相性が良い
組織内の序列が安定する
学歴は、
「能力そのもの」を測っているというよりも、
“この人は、この社会の中で
どの位置に収まりやすいか”を
低コストで予測するための装置
として設計されています。
だから日本では、
学歴で入口を切り分け
資格で役割を分け
所属で信頼度を判断する
という仕組みが、社会全体として自然に機能してきました。
重要なのは、ここです。
日本の学歴・資格が強いのは、
それが「特別に優れている」からではなく、
同一の評価装置を、社会全体が共有しているからです。
つまり、日本で学歴や資格が効くのは、
個人の問題ではなく、環境の問題です。
この「同一評価装置」の前提が崩れた瞬間、
学歴や資格は、
“予測装置”としての力を失います。
海外に出るとは、
この前提が一気に外れる場所に立つ、
ということなのです。
3.海外では「序列」より「機能」が問われる
海外の市場には、日本のような
「共通の学歴序列」や「制度内ランキング」が存在しません。
そこにある前提は、次の四つです。
多言語
多文化
多制度
多市場
人々は、
どの国で育ったか
どの教育制度を通ったか
どの資格体系に属しているか
が、すでにバラバラの状態で出会います。
この環境では、
「どこの大学か」
「どの国家資格か」
「どの省庁か」
といった“制度内の位置”は、
共通の物差しになりません。
その代わりに、
ほぼ例外なく問われるのは、次の三点です。
何ができるのか
どんな価値を出せるのか
それをどう証明できるのか
海外では、肩書や学歴は
「能力の代替」にはなりません。
それらは、
出発点の説明
背景情報
話題のきっかけ
にはなっても、
評価そのものにはならないのです。
たとえば、
“I graduated from a top university in Japan.”
と言ったとき、
相手が知りたいのは「序列」ではありません。
続くのは、ほぼ必ずこの問いです。
“So what can you actually do?”
この一文が示しているのは、
海外の評価装置の本質です。
そこでは、
どの列にいたか
ではなく
どんな機能を持つ人間か
が問われます。
つまり、海外では、
「私は〇〇大学の人間です」
ではなく
「私は〇〇ができます」
と名乗れなければ、
評価の土俵にすら乗れません。
これは冷酷さではありません。
異なる制度・文化・言語の人々が
同じ場で協働するためには、
共通の序列
共通の肩書
に頼ることができないからです。
だから海外では、
人はこうして評価されます。
この人は、
この場で、何の役に立つのか。
日本的な「序列の言語」が効かない世界では、
人は必然的に、
機能として自分を語ることを求められるのです。
4.なぜ「翻訳」が必要になるのか
日本の学歴や資格が海外でそのまま機能しない理由は、
それらが文脈依存の情報だからです。
たとえば、日本では次の表現が強い意味を持ちます。
一部上場企業勤務
国家資格保持者
〇〇省出身
地方自治体の管理職
これらは、日本の制度を知っている人にとっては、
信頼できそうだ
能力が高そうだ
責任ある仕事を任されてきたのだろう
という推測を、一瞬で成立させます。
しかし海外では、こうなります。
“I worked for a listed company in Japan.”
“I hold a national license in Japan.”
“I used to work for a ministry in Japan.”
これらの文は、事実としては正しい。
しかし同時に、こう問い返されます。
“So what does that mean in practice?”
“What were you actually responsible for?”
つまり、日本では「肩書そのもの」が語ってくれていた情報を、
海外では自分で展開しなければならないのです。
ここで必要になるのが、「翻訳」です。
翻訳とは、
日本語を英語に置き換えることではありません。
それは、
学歴を
→ 能力に変換する
資格を
→ 役割に翻訳する
職歴を
→ 再現可能な成果に落とす
という行為です。
たとえば、
「地方自治体の企画部にいました」
ではなく
“I designed and implemented policy evaluation frameworks for urban projects.”
「国家資格を持っています」
ではなく
“I am licensed to independently assess and approve high-risk operations under national regulation.”
このように、
制度に依存した肩書を、
機能として再構成すること
これが、海外で求められる「翻訳」です。
海外の評価装置は、
「どの制度の中にいたか」を読めません。
読めるのは、
あなたが
何を設計できるのか
何を判断できるのか
何を再現できるのか
という機能の言語だけです。
だから海外では、
学歴を足すこと
資格を積み増すこと
よりも先に、
自分の経歴を、
機能の言葉で語り直す力
が問われます。
翻訳できない学歴や資格は、
“読めない情報”のままです。
そして読めない情報は、
評価装置の外に置かれます。
海外で通用するとは、
自分の過去を捨てることではありません。
その過去を、
別の評価言語で再構成できるようになること
なのです。
5.「海外修士」が効く理由と、効かない理由
ここまで見てきた構造からすると、
「では、海外修士を取れば問題は解決するのか?」
という問いが自然に浮かびます。
答えは、半分だけ「はい」で、半分は「いいえ」です。
海外修士が効く理由は明確です。
共通フォーマットである
国境を越えて理解される
評価言語が国際的に標準化されている
つまり海外修士は、
“翻訳済みのシグナル”として、
最初から読める形式で提示される
という利点を持っています。
そのため、
日本の大学名
日本独自の資格
国内限定の肩書
よりも、はるかに速く
「評価装置の中」に入ることができます。
しかし、ここで多くの人が誤解します。
海外修士を取れば、
それだけで“通用する人”になれるのではないか。
これは誤りです。
海外修士がしてくれるのは、
あなたを
“読めない存在”から
“読める存在”に変えること
までです。
言い換えれば、
評価の入口に立たせてくれるだけで、
評価そのものを保証してくれるわけではありません。
海外修士を取った人に対しても、
海外の市場は同じ問いを投げかけます。
“So what can you actually do?”
修士号は、この問いを免除してくれません。
ただ、
「その問いを投げてもよい相手だ」
と認識してもらえるだけです。
だから、海外修士が効くのは、
その学位を
→ 機能に翻訳できる人
学んだ内容を
→ 実務の言語に落とせる人
だけです。
一方で、効かないのは次のような場合です。
学位そのものに期待してしまう
「MBAホルダー」「修士出身者」という
ラベルで勝負しようとする
修了後に、
「何ができるようになったか」を
説明できない
このとき、海外修士は、
翻訳の入口
ではなく
翻訳を怠ったままの“飾り”
になります。
海外修士は、
「通用する人」になるための魔法ではありません。
それは、
自分を
“機能の言語”で語るための
スタート地点
にすぎないのです。
海外修士が本当に意味を持つのは、
その後に、
何をできるようになったのか
それをどう使っているのか
を、自分の言葉で示し続ける人だけです。
学位は、
翻訳を免除するものではなく、
翻訳を始める権利を与えるだけなのです。
6.通用する人がやっていること
海外で評価されている人たちは、
特別な肩書や学位を持っているから通用しているわけではありません。
彼らが共通してやっているのは、
たった一つのことです。
自分の経歴を、
「機能の言語」に変換して語っている。
日本的な自己紹介は、こう始まります。
〇〇大学出身です
〇〇省にいました
国家資格を持っています
しかし、海外で通用している人は、
まったく別の形で名乗ります。
“I design data-driven policy frameworks.”
“I build models that predict infrastructure demand.”
“I lead cross-border projects under regulatory constraints.”
彼らは、
学歴を
→ 能力に変換して語り
資格を
→ 役割に翻訳し
職歴を
→ 再現可能な成果に落とし込む
という作業を、無意識に行っています。
重要なのは、
彼らが「嘘をついている」わけではない、という点です。
むしろ逆です。
日本的な表現のほうが、
文脈に依存し
説明を省略し
相手の“共通理解”に寄りかかっている
という意味で、
ローカルな省略形にすぎません。
通用する人は、その省略をやめ、
「この人は、
この場で、何ができるのか」
という問いに、
直接答える形で自分を提示しています。
だから彼らは、
“I used to be …”
ではなく
“I can …”
で語ります。
これは英語がうまい、という話ではありません。
評価装置に合わせて、自分の形を変えているという話です。
海外で通用するとは、
日本の経歴を捨てること
でも
別の人間になること
でもありません。
それは、
自分の過去を、
機能の言語で再構成できるようになること
です。
学歴や資格が強い人ほど、
この変換を後回しにしがちです。
しかし、海外で評価されている人ほど、
この作業を早く、深く、徹底的に行っています。
彼らはこう理解しています。
評価されるとは、
「どの列にいたか」を示すことではなく、
「この場で、何の役に立つか」を示すことだ。
この理解こそが、
「通用する人」と「通用しない人」を分ける、
唯一の境界線なのです。
7.まとめ
― 問題は「日本」ではなく、「翻訳されていないこと」
ここまで見てきた通り、
日本の学歴や資格が海外で通用しにくいのは
日本人の能力が低いからでも、
日本の教育水準が劣っているからでもありません。
問題は、ただ一つです。
それらが、
海外の評価装置で“読める形式”に
翻訳されていないこと。
日本の学歴や資格は、
同一言語
同一文化
同一制度
同一市場
という前提の上で、
「この人は、
日本社会の中でどの列にいるか」
を瞬時に伝えるための、
極めて合理的な装置として機能してきました。
しかし海外では、
共通の序列が存在せず
制度の文脈が共有されず
出身背景が多様である
ため、
「どの列にいたか」という情報は、
評価に直接つながりません。
そこで問われるのは、常にこれです。
“So what can you actually do?”
海外で通用するとは、
学歴を捨てることでも
日本を否定することでもありません。
それは、
自分の過去を、
「どの列にいたか」ではなく、
「何ができる人か」として
語り直せるようになること
です。
必要なのは、
学位を足すこと
資格を積み増すこと
ではなく、
評価軸を、
相手の世界に合わせて翻訳する力
です。
日本の学歴や資格は、
優れています。
ただしそれは、
日本という評価装置の中で
優れている、という意味にすぎません。
海外で評価される人とは、
より多くの肩書を持つ人
ではなく
自分を、機能の言語で語れる人
なのです。
通用しないのは、あなたではありません。
“翻訳されていない形”で、提示されているだけなのです。
海外で通用するとは、
新しい自分になることではありません。
すでに持っている自分を、
別の評価言語で再構成できるようになること
それが、この連載で伝えたかった
最も重要な一点です。
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